生物としての静物 - ただひたすら見ることができる
[amtap book:isbn=4087481298]
サラリーマンになりたての頃に、この『生物としての静物』を買ったようだ。奥付を見ると第一刷となっている。
当時私は、ミニカーや車を除けば、一人前の男ならたいていは知っているような物に疎かった。小説などにそういった類の名前が出てきても、とくに気にとめようとしない。実際にも、伯父がロンジンの自慢をしていても無視というかわからない。誰かに急にジッポーなどと言われてもちんぷんかんぷん。もっとひどいのは、何かの間違いでグランドセイコーを人がくれたのにとくに喜ぶわけでもない。ところがこの本を読んでから少し風向きが変ったらしい。知識を増やせば物がもっと面白く見えてきそうだなと思えるようになったようだ。
今でも数本持っているスイスアーミーナイフの一つを初めて手に入れたこともこの本と無関係ではないようである。
ただし、この作家はウェンガーナイフについてこういうことも書いている。
……これは人間についていえることでもあるのだが、ナンでもカンでも一人前以上にやってのけられる人物が尊重され、貴重がられ、それにふさわしく待遇されている例はたくさんあるけれど、一つか二つのことしかコナせないのに七つ、八つのことを同程度にコナせる人物よりもはるかに高く信愛されるケースがじつにしばしばある。いや、ひょっとするとその事例のほうがはるかに多いのではあるまいかということである。これは人間性というふしぎなものについての一つの示唆である。爪切りは爪を切ること、缶切りは缶を切ることに徹底し、完璧であること。そういうことなのだ。これが”機能”を超えた信愛を呼ぶのである。
ほんとうにそうだ。アーミーナイフのようなものは毎日使うわけではない。多機能に一種の尊敬心を抱いてはいるのだが、何か一つ一つの機能を利用するときはそのための愚直な道具を使う。作家も、この後で、それでも何だか「愛着」があってウェンガーナイフを持ち歩くと書いている。
物は使いつづけていると、生活をともにしている生き物のように感じられてくることもある。しかも一瞬頭を切り替えてただの物としてとらえることもできるから、人とちがって複雑なことを考える必要がない。ただひたすら見ることができる。嘘をつかないとも言えるだろうか。
やっと少しはこういうふうに考えられるようになった。なぜか。それはやはり開高健がこうしてじっくりと物への接し方を教えてくれたからである。
この本には是非文庫本として生き残ってもらいたい。
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