Archive for January, 2008
右脳が先のMac
見たことはあっても、まったくMacに触れたことがない。どうやら、そういう私のような人はあまり多くないらしい。
最近、Aki’s stocktakingのオーナーのかたが勧めてくださり、一台くらいはと思うようになった。ただ、Macの世界については無知に等しいので、インターネットでいろいろながめている。近所の電気屋さんにはあまり置いてない。吉祥寺あたりまで足をのばそうかとも考えている。
デザインに詳しいわけではないが、Mac製品の写真をいろいろと見ているうちに、Macの「デザイン」のほうがWindowsよりも右脳を刺激するなと思った。クリエイターが大切な顧客基盤になっていることも関係しているのだろうか。デザインの面には、今でもデザインファームのIDEOがかかわっているのだろうか。
Macについていろいろなかたが意見を提示してくださった。Macのほうが自分にとって自然体という意見もあり、「Macはイタリア車のようなものだ」という意見もあった。イタリア車というとドイツ車と比較したくなる。Windowsマシンはどちらかというとドイツ車か。
Mac Miniの写真をはじめて見たときは、「おもちゃの入ってる白い箱」が頭に浮かんだ。Windows系の製品でも最近はかなりカラフルになってきているが、こういうメッセージを伝えているとは思えない。
MacBook Airは、週刊誌にも広告が掲載されていたが、「薄さ」が売りのようだ。スクリーンの手前にショーウィンドウのアイテムのように並んでいるアイコンが可愛らしい。実際手にとってみないと「薄さ」は実感できないので、アイコンに目を引かれた。
しばらくは単独Macツアーが続きそうである。
[amtap book:isbn=1590596757] [amtap book:isbn=4774126918] [amtap book:isbn=4756150721]
利根川進さんの栄光を支える大変な人々
利根川進さんが、脳の神経回路のスイッチのオン/オフを自在に切り替える遺伝子操作技術を発見したらしい。まったく知らなかったのだが、いつも貴重な情報をくださるmixiのマイミクのかたが教えてくださった。
不遜な言い方だが、まず第一に自分がびっくりしたのは自分もそういうものを本当にほしいと思っていたからである。このブログで前に書いた「ニューロン選手」である。ある本で読んだ知識と別の本で読んだ知識をつなげるために、スイッチが必要になる。だから、自在に切り替えられるスイッチがあればとても便利。
もちろんこの新しい技術は当面実験動物用らしいが、私も、ものを書いているときは実験動物のような気分になることがあるから問題ない。
もう一つ今回のニュースでは、とても勉強になったことがある。それは、いつの世も同じで、やはり栄光を支える人たちは大変な目にあっているということである。詳しくは書かないが、それもマイミクのかたから教えていただいた。私は本だけを通じて利根川教授のことを知っていたので、その知的バイタリティと自由な思考にばかり目を向けていた。軌道修正というか、本の内容と自分が本当に信じていることのすり合わせのようなことをさらに実行していこうと思った。
それともう一つ気になったのは、今回のDICE-Kという松坂大輔にちなんだ命名である。このKには三振という意味があるのではなかったか。名は体を表すというから、どんな展開になるのかなとも思う。ピッチャーの場合なら意味があるのだろうけど。
[amtap book:isbn=4167330032][amtap book:isbn=4004307554]
ショッキングな昭和天皇の「ア、ソウ」について
かなり前の話だが、ひととき、昭和天皇の「ア、ソウ」が話題になったことがある。誰かが天皇に何かを言うと、まるで口ぐせのようにそういう答えが返ってくる。家では早速、弟とよくふざけて使い合ったりした。それを傍目で見ている親たちは黙認しているような雰囲気だった。
独特の口調でもあり、やや不謹慎ながらも一種の「愛嬌」として受け取っていたのだが、どうやらそうではないらしいことがわかった。実は「ア、ソウ」になるわけがあったのである。
こんな時期にやっと気づいているのは私だけなのかもしれないが、その事情について丸谷才一さんの『ゴシップ的日本語論』を読んであらためて知った。その中で丸谷さんがとりあげている関連の鳥居、ビックス両氏の「天皇言語不能」説については、極論だとする動きもあったらしいが、この本の後書きのほんとうの後ろの部分で竹内修司さんが引用している公式記者会見の内容を見ると、何でこういうことが日本ではもっと重大視されないのだろうと思った。
「過去のことはどうでもいい、もっと前向きに」ではなく、これからさらに良くしていくために、歴史とその背景になる言語の重要性をきちんととらえるということを私も実行していきたい。
『ゴシップ的日本語論』のごく一部をご紹介しておく。冒頭に近い部分である。
それは、昭和天皇が皇太子であったときに受けた教育に、重大な欠陥があった、といふものです。そのために、言語能力の面で非常に問題のある方になった。この昭和天皇の言語能力についての二人の著者の指摘を紹介しませう。それによつて、日本語問題を新味のある特殊な角度から考へることができると、私は思つてゐます。
出典:『ゴシップ的日本語論』、丸谷才一、文春文庫
[amtap book:isbn=4167138190][amtap book:isbn=406210590X][amtap book:isbn=4794211767]
編集者マグナ・カルタをもう一度
ババブイさんという女性のかたから、この文章を書く引き金をいただいた。ものを見る目というテーマである。
今もこうして部屋にこもってずっと仕事をしていると、だんだんと頭が腑抜けになってくる。頭の中の堂々巡りという感じでもある、天才ならまだしも、ただの一市民なのだから、もっとものを見なければいけない。
ものを見るといえば、そうだ開高健のつくった「編集者マグナ・カルタ九章」があった。出版社にいたころ、よくそれをながめていた。実行できるのはそのうちのわずかだった。
こういう内容である。
一、読め。
二、耳をたてろ。
三、眼をひらいたままで眠れ。
四、右足で一歩一歩歩きつつ、左足で跳べ。
五、トラブルを歓迎しろ。
六、遊べ。
七、飲め。
八、抱け。抱かれろ。
九、森羅万象に多情多恨たれ。
出典:『風に訊け』、開高健、集英社文庫[amtap book:isbn=4087476316]
ブリキのおもちゃと私の目
昨夜は、ずっとごぶさたしてしまった秋山東一さんのブログ、Aki’s Stock Takingにアクセスした。
秋山さんのストックにはいろいろな玩具も含まれていて、それらを見ていると、子供の頃のいろいろな思い出が蘇ってくる。
しかもどのコレクションアイテムも正確な知識が背景になっているので、いつもこちらが不勉強であることを、良い意味で思い知らされる。
夜中にアクセスしてみると、ビートルのTIN TOYが窓際のシルエットスタイルの写真で掲載されていた。ずっとアクセスしていなかったのに、いきなり自分の好きなものが目の前に展開されて、これは秋山さんに深く感謝しなければいけないと思った。
しかも、もう12時を過ぎていたのに、すぐにコメントに返事を書いてくださった。
私は、またしても写真の見方が甘かった。精密だと思ったモデルには実はそんな言葉では割り切れない仕掛けがあったのである。それはプレス構成である(この書き方でいいでしょうか)。
ちょうどその前に、『絵の言葉』という本を読んでいた。それだけに、なおさら写真とか絵からその根幹にあるメッセージをもっときちんと受け取れるようにならなければならないと思った。
それとこれはあくまで蛇足だが、子供の頃に持っていたイセッタのTIN TOYに思いを馳せた。この連鎖はしばらく止まらないと思う。
[amtap book:isbn=486167008X] [amtap book:isbn=4797451793][amtap book:isbn=4061580744]
時間通貨なら安心して発行できる!
堀田力さんの『「人間力」の育て方』を読んでいて、初めて「時間通貨」という概念を知った。もちろん、そんなのとっくのとうに知ってる、というかたも多いかもしれない。
これは簡単に言うと、小さなコミュニティを作って、その中で各自がほかの人のためにできることを登録し、そのコミュニティの中でお互いにその取得権を時間単位で発行する、ということになるのだろうか。
お金でなく時間単位ってのがとても粋だ。堀田さんも言っているように、お金をとらないのだから、いちいち資格にこだわる必要もないのも実に風通しがいい。
私もこの時間通貨を発行してみたくなってきた。ほかの人のために何をやってあげられるか。それを考えるとあまりないけれど、逆に通貨を発行して目標を作り、やる気を出すっていう手も考えられそうだ。
堀田さんはこう書いている。
このように、時間通貨は、人に「助けて」といいにくい現代の日本社会で、「助けて」といえる有効な道具になるのです。
出典:『「人間力」の育て方』、堀田力、集英社新書[amtap book:isbn=4087204170]
無能の人
仕事を終えた夜に、四畳半くらいしかない書斎で、つげ義春の漫画をよく読む。中でもとくに読み返すことが多いのは、『無能の人』である。もう擦り切れてぼろぼろになりそうだ、本が。
第4話の「探石行」に出てくる次の一節が心にしみることだってある。ひなびた鉱泉宿の風呂場でかわされる主人公と家人の会話。
「虚無僧さんて虚無の僧なのかしら」
「仏教に虚無はないよ」
「由来はよく知らんけど 乞食みたいなものだろ」
「まあ一種の無用者だな」
「どうゆう意味?」
「高度資本主義社会に機能しない無用の存在ってわけだ」
「役立たずの無能の人なのね」
「ははは そうゆうことだな」
「あんたみたいじゃない!」
(注:二人は夕方に宿にやって来た虚無僧に「プオー」をやってもらったのである。映画では風吹ジュンが奥さん)
言い切るところが偉いではないか。「仏教に虚無はないよ」と。それに何だかつい自分のことを振り返ってしまうような風情の会話だ。家でばかり仕事していると、社会と本当につながっているのかどうか、市民として機能しているのかどうかわからなくなることもある。
ところでつい最近、少し自信をつけた。大好きな作家の一人の川上弘美さんが、『無能の人』をきちんと読んでいたのである。しかも嫌いではないらしい。「おれはとうとう石屋になってしまった ほかにどうするあてもなかったのだ」という主人公の気持ちから発展させて、「マイナーとうとう」という言葉も発明している。作家はこうでなくてはいけないのだろう。
出典:『無能の人』、つげ義春、新潮文庫
『ゆっくりさよならをとなえる』、川上弘美、新潮文庫
[amtap book:isbn=4101328137][amtap book:isbn=4101292337]
世界の鈴木さんに会いたい
小学生の頃、ご近所に鈴木さんという自動車エンジニアが住んでいた。そして、これは比較的最近、建築家の秋山氏が教えてくださったのだが、鈴木さんはその後米国で高く評価され、世界的なエンジニアになったという。思わず、あの方だったらそうなる、と納得した。
子供心にも一番印象付けられたのは、その気さくさと手製の飛行機模型である。そしていつも大きな目が輝いていた。またお会いしたい。もちろん、頼んでも会ってもらえないかもしれないけれど。
以前別のブログにも書いた雑文を貼り付けることにした。これを書いたときは、もちろん鈴木さんがそんなに世界的になっていることを知らなかった。鈴木さんは「エンジンのロマン」という本も著している。本名は鈴木孝さん。
<以下抜粋>
ルノー4CV。つまり日本でいえば日野ルノーPA型である。外から見ると、颯爽とした雰囲気ではないけれど、乗ってみると余計なものはまったくなくて、しかもどこか洒落ていて温かみがある。本皮製のシートなどもってのほかで、メーター類は一点集中型。シフトノブはえらく簡単。馬力もあまりないし、たぶん排気量も800ccそこそこ。そんな車だ。
その4CVが、あるときご近所の家の庭で、完成前のプラモデルのキットのような姿になっていた。自動車会社のエンジニアである鈴木氏が、若手を家に呼び、芝生の上でいっしょにまるごと解体していたのである。
その頃はなぜそんなことをしているのか、ただ不思議に思うだけで、ありのままの気持ちを母に報告したりするくらいのものだった。母は意に関せずというようすだった。
4CVがプラモに変身したのは一度や二度ではない。今思えば、鈴木氏はまちがいなく会社から使命を負わされていたのだ。早く、他社に負けない、いい乗用車を作らなければならない。だからこそ、目の前にルノーがある。よーし、来週は休暇をとってまたひとつオーバーホールをやるか、佐藤君。そんな乗りだったのだろう。
鈴木氏はよく4CVを駆って、幼いご長男と一緒に無口な私をドライブに連れていってくれた。技術者だから、たぶん走行実験を兼ねていたのと思う。それでも、私は心が躍った。とにかく車に乗っているだけで上機嫌という単純な子供だったのである。
外の景色には目もくれず、気が付くと巨大な輸送機が地面にへばりついている横田基地の横を走っていたりした。飛行機よりも車のほうが偉いんだぞ、と自分に言って聞かせた。目の前のライバルがグローブマスターであることは、すぐにわかった。
仕事以外の面で、鈴木氏は「メカニズム」をとことん楽しんでいた。当時かなり広く見えたご自宅の和室には、鉄道模型がいつもぐるりと走る状態に整えられていたし、リビングの天井には精密な木製の飛行機の模型がわんさとぶら下がっていた。もちろん黒い滑稽な鼻のついたグローブマスターも。
別に仰々しくプラスチックケースにおさめられているわけでもないし、触るなという圧力も感じさせない。どの遊びのギヤも部屋の空気に溶け込んでいる感じがした。それが何とも言えない、ぜいたくな気分にさせてくれたのである。
もう何十年もたっているのに、今でも鈴木邸に思いをはせると、子供のような気持になれる。たとえ一瞬でも、そこからまた夢が少しはふくらむ。比較的最近、とうとう4CVの1/18モデルを買ってしまった。居酒屋を一回我慢しただけの話なのだが。
[amtap book:isbn=489522287X]
まかないめし
子供の頃、親と一緒に商店街にある小さな食堂とかラーメン屋に入って昼ごはんを食べたりしていると、店で働いている人がいつの間にか片隅にちょこんと座って、何か見たことのないおかずを店主に出してもらっているところをよく見かけた。それが実にうまそうで、子供心に毎日あんなもの食べられたらいいなあなどと思ったものだ。
店の主人などが従業員に出すそういう食事のことを「まかないめし」というのだそうである。私は糸井重里さんの『ほぼ日刊イトイ新聞の本』を読んでいてはじめてその呼び方を知った。糸井さんは、本の中でこう言っている。
「まかないめしの中には、自分のほんとにやりたいことや、実力というものが秘められているのだと思っている」
出典:『ほぼ日刊イトイ新聞の本』、糸井重里、講談社文庫[amtap book:isbn=4062749017]
写真よりも絵のほうが真実という不思議
写真というものを発明したのに、人はなぜ絵を描き続け、絵をながめようとするのか。これは、人にはとても見せられない絵やイラストを自分で描いているときにいつも心に浮ぶ疑問である。描いていてなかなか絵にならないのは車である。以前、著名なイラストレーターが、描かれたタイヤでその人の力量を判断できると言っていた。たしかに、どんなに最初うまいなあと思っていたイラストや絵でも、その中のタイヤを見ると、「えっ」と考えを変えなければならないことがある。
だったらカメラがあるじゃないかと思いがちである。けれどカメラは、あくまでも目の前の映像の一部を切り取るための道具のような気がする。もちろんすばらしい写真家による心をうつ写真もあることはあると思うけれど。
こう思っていると、ふと安野光雅さんが述べている次のようなくだりに出会った。
「真実」は限りなく「事実」に近づきたくても、限度というものがあります。あるいは、近づかないほうがかえって「事実」に近づいているのではないかと思われることもあります。たとえば、お芝居の舞台を考えてみてください。わたしたちが描く絵は、ちょうど舞台のできごとなのだと言うとわかりやすいのではないでしょうか。おもしろいことに、本当にあったこと(事実)には動かされないのに、絵なり映画なりになった「真実」のほうに心を動かされるということがあるものです。
出典:『絵の教室』、安野光雅、中公新書[amtap book:isbn=4121018273]


